美汐な日常 Res cotidianae Misionicae.
お菓子が降って来たら良いのに。
〜Trangemata pluviat.〜


(足りない……)
 目の前の現実は冷酷で容赦が無い、そうとしか思えなかった。
 今月は連続で様々なイベントがあったので、気を付けないとこうなるという事は予想していたのだが、よもやここまで切羽詰るとは……。
(……これはあまりにも酷というものでしょう)
 思わず現実から逃げてしまった。美汐は頭を振って、あまりの事態に放棄しかけた現実主義的思考法を強引に取り戻そうとした。
『現実というものには冷酷さも温情も無い。ただただ存在するだけだ。それに感情を見いだすのは人間の利己的な自我に他ならない』
 美汐は念仏のようにぶつぶつと呟くことで、現実とそれを受け入れたくない自分の感情とに折り合いを付けた。折り合いをつけたところで、問題がただちに解決するわけではないけれども。
 1,235円。
 それが美汐に突き付けられた現実。

 とりあえず状況を整理しよう。ともすれば逃避したくなる自分に鞭打って、美汐は周りを取り巻く現状を指折り数え始めた。
 この金額は、親からの仕送りがあるまで減ることはあっても増えることは決して無い。そして仕送りが来るのは1週間後の事だ。
 頭の中にそろばんを描き出し、暗算を始める。
 幸いな事に、仕送りまでに公共料金などの支払い期日はやって来ない。
 学校へは歩いて行けるので交通費については考えなくても良い。となると、当面の問題は食生活について。今週の金、土、日は三連休だからずーっと家に居るとして、4日間は学校に行かねばならない。神の子にして預言者でもあるまいし祈れば机の上にパンが並ぶという事は無いので、昼食は自腹を切って賄わなくてはならない。(白米だけの弁当を持って行きたいのなら話は別だ) 食費の圧縮は魅力的だったので、休みの日を白米だけで過ごす事の妥当性について少し考えて美汐は溜め息をついた。栄養の偏りとか、それから来るちょっとした肥満についてが、ちょっと考えて浮かんだ主問題。どうやら食費の圧縮よりも豊かな食生活に主眼をおいて考えるように頭を切り替えた方が良さそうだった。
 それでは、1,235円をいかに活用して豊かな食生活を確保するか。
 まず、何はともあれ納豆を買うべきだろう。関西の方々や好き嫌いのある方々には異論もあろうが、美汐にとってそれは朝ご飯の必需品だ。祐一は年寄りくさいと評したが(おばさんを一気に通り越しているが、それは日本の食文化に対して失礼というものだ)、3パック100円はやはり魅力だ。たった消費税込み210円で、ほぼ1週間の朝が過ごせるのだ。栄養価も高いし、少し手を加えるだけで信じられないほどのバリエーションの広がりを見せるのに。
 あとは昼(勿論、お弁当の事だ)と夜のおかずについて考えたら良い。残り1,000円で、何を買おうか? 美汐は菜食派だ。野菜だし、保存を考えて2回に分けて買い物をするとして1回あたり500円。
(……そろそろ、冬野菜の旬かな)
 そんな事を思いついた。やはり冬野菜なら大根と白菜は外せないだろう。風呂吹き大根など、想像するだけで唾が湧いてしまう。筑前煮のような煮物にしてしまうのも良い。酒糟で一見ホワイトシチューのようにしてしまうのも面白いものだ。肌寒くなってきたからこそ、大根はおろしたりサラダのように生で食べたりせずに、煮物として食べてしまうべきだ。葉は炒めて活用。白菜はやはり鍋だろう。牡蠣があれば迷わず味噌をたっぷりと盛った土手鍋にしてしまいたい。そこまでしなくても、ベーコンと固形スープと一緒に煮込むだけで手軽で美味しい鍋になってしまう。美汐の頭の中のテーブルには、大根と白菜を使った様々な料理が浮かんでは並べられてゆき、テーブルが手狭になる都度拡張されていった。夢が広がるとは、こういうことをいうのだろうか。
 しかし、美汐はふと気が付いた。大根と白菜、そのどちらも残念ながら1000円で1週間分の野菜を調達しようとしている現状にはそぐわない値段がついているという事に。昼の弁当にも少し使いづらい。少々残念に思いながら冬野菜の王と女王(少なくとも美汐はそう思っている)の2つを諦め、他の野菜を用いた献立を模索し始めた。
 そこではたと時計に目が留まった。そろそろ学校に出掛けないと走る羽目になる時間。
 悩むのは、後にしよう。学校帰りにタイムサービスを狙ってスーパーに寄るのだから、何を買うかは休み時間にゆっくりと決めたら良い。
 そう決めて、美汐は新聞の広告からスーパーの物だけを抜き取って鞄に納めた。

(失敗だ……言い訳のしようの無い凡ミス)
 美汐は自分の記憶力には人並み程度の自信を持ってはいるが、何でも彼でも必要な時に必要な情報を思い出せるわけでもない。度忘れしてしまうこともある。
 朝の美汐はまさにそうだった、としか言いようがない物忘れを犯していた。
 それは、学校の委員会の活動があるので、週末までは商店街の開いている時間に帰宅出来ない。そういう事だ。
 今まで学生代議委員会で一緒に仕事をしていて、夜も遅いからと美汐を家まで送ることを申し出てくれた男を、ちらりと恨めしげに睨む。その男が悪いのではないと、重々に理解しては居たけれども。他に拳を振り下ろせる場所は、手の届く範囲には無かった。
「ん? どうした天野」
「……何でもありません」
 男が美汐に掛けた声をも一蹴。
 午後8時過ぎの商店街を、閉まったシャッターの数々を横目で見やりながら美汐は歩いて行く。
「天野、そこの八百屋に何か恨みでもあるのか?」
 男が美汐の視線に気付いて尋ねた。
「……ありません」
 美汐としてはそう答えるしかない。
「そうか。そうか。こないだもキャベツにホッチキスの芯を混ぜて売ってたからなあ」
 しかし男は美汐の答えなど聞いていない風に、本当にあったのか無かったのか判断に困るような事をコクンコクンと頷きながら飄々と言う。
「天野もそれにやられた口か?」
 そのとき、美汐のお腹がくぅと可愛らしい音を立てた。男は思わず気まずげに視線を美汐から逸らす。
「……相沢さん」
 気まずい空気に構わずに、ゆっくりと視線を男に据えて美汐は切り出した。
「以前に奇跡の話をしましたよね」
「……ああ、したぞ」
「その時に私が言ったこと、今は切々と想い焦がれます。お菓子が空から降って来たら良いのに。今、すぐに」
「……天野。うちで夕飯食ってくか?」
「意を汲んでいただき、ありがとうございます」

 この夜は、この夜だけは緊急避難が成ったけれど。
 結局貧しい食生活は、改まっていない。そして仕送りまであと6日。
 ちなみに美汐は昼休みに弁当も食べず学食にも行かず、スーパーの広告を見てため息をついていた姿から様々な憶測が生まれ、ステキな噂に装飾された毎日をこれから暫く過ごす羽目になる予定。

(終わる)



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2002/06/21 ラテン題訂正