そこは、控えめに言っても猥雑というしかない混み具合だった。

 同人誌即売会。ちょっと好きなものへの趣味が昂じて本を出すまでに至った人間と、それを欲しがる人間との交流の場。それはちょっとしたお祭であり、近隣の街から数万という同好の士が集まっているのだ。

 美汐は人ごみの中を歩くことも苦にならない性質だ。勿論、長い行列に並ぶのも。近所のスーパーマーケットで、タイムサービス品をまるで獲物を狙う鷲のように覗う主婦達に混じっているのは伊達や酔狂での事ではない。
 そういう美汐だから、この人がごった返す場でも逡巡無く目的地の方向を知り、躊躇無く人の群れの中に分け入れた。長い間、孤独と記憶を親友として生きてきた彼女だが、このような場所には馴染みがある。
 ポーチの中で何かが震えた。美汐は手早くファスナーを開き、振動しているそれ――携帯電話を取り出した。
 画面表示は『相沢祐一』。それだけを確認してオフフックボタンを押した。
「天野です」
 緊張しているであろう相手をリラックスさせる為に意図して出した声は、美汐も我ながら自賛したい程の落ち着いた雰囲気だった。なのに――美汐は残念に思った――相沢さんときたらまるっきり落ち着いていない、それどころか慌てているともいえる調子で
『天野か!?』
と誰何した。出るときに名乗ったのにと、美汐は電話口に掛からないように控えめな溜息をついて「はい、私ですよ」と返事をした。
『天野、ここはダメだ!』
 相変わらず慌てて話す祐一。
「相沢さん、報告は判り易くお願いします」
『行列が長くて……さっき新刊あと100冊とか言ってたぞ。真琴も参ってる』
 祐一の報告を聞いて、美汐の表情が一瞬にして引き締まった。ポーチから地図を取り出し、広げる。
「相沢さん、前に並んでいるのは何人ほどですか? 大体の人数で構いません」
『大体……4列だから……80人くらいってところだ』
 美汐は携帯電話に当てた耳を澄ませた。バックから聞こえてくるのは、紛れも無い戦場の音楽。だが雑踏の音というような、乱れた足音ではない。という事は、新刊の残り冊数が少ないという事を知っても行列を崩していないという事だ。そうならばそこの新刊を買えるかどうかはかなり微妙なところだ。
「周囲の行列の状況はどうですか?」
『ここほどじゃない。長くてもここの3/4くらいだ』
「10秒下さい」
 そう言うと返事も確認せず、美汐は地図に目を走らせた。祐一の現在位置は位置表記A-36b、重要度4の目標を任せている。A-36bの周囲には重要度の高いサークルが綺羅星のように点在している。
 重要度が4の目標で入手可能なものは、既にあらかた押さえてある。となると入手できるかどうか危うい重要度4よりも、周囲の重要度3の目標に向かってもらった方が、安全か。
「相沢さん、そこを一旦退いて下さい」
『帰って良いのか?』
 祐一の声は少し嬉しそうだった。祐一の声の後ろから『帰れるの?』という真琴の嬉しそうな声も聞こえる。そんな2人にこれから過酷な任務を課さなければならない事をすまなく思う、そんな贅沢を一瞬だけ味わってから、美汐は告げた。
「別の目標をこれから指示します。地図の用意は宜しいですか?」
『げっ!? まだあるのか……?』
『あぅ……。もう帰ろうよぉー』
 うんざりといった調子の祐一の声の後ろに真琴の弱りきった声が聞こえた。
「地図の用意は宜しいですね」
 美汐はそんな2人の様子に頓着しない。口調も質問から確認に切り替わった。
『……応』
 美汐の反応が変わらない事を察した祐一も仕方ないという風に応じた。
「相沢さんにはA-11aに並んでもらいます。真琴にはその隣のA-11bに並んでもらってください」
『どの辺りにあるんだ、それは?』
「右手を見てください。“C6”と書かれた柱が見えますか?」
『見える』
「その下の近くに目的地があります」
『それよりも、二手に別れるのか? 真琴が結構グロッキーなんだが』
「真琴に代わってもらえますか?」
『……みしおー。もう帰ろうよ、ここは地獄よぅ』
 地獄とは、真琴も結構渋い感性をしていると美汐は思った。
「真琴。ここは確かに地獄かもしれません。でも、出口の方を見てください」
『……あぅぅ……人がいっぱい』
「帰るのも地獄、行くのも地獄です。私に付いて来たら、少しはましな地獄を見させてあげますよ」
『あぅー』
 真琴の弱った声。半分泣き顔になった真琴が目に見えるようだった。
「どうしますか? 真琴は不慣れですから、ここで帰ったとしても仕方ありません」
『美汐は帰らないの?』
「私は気になりませんよ。地獄は私の故郷ですから。実に心安まります」
 即売会を故郷とし、即売会に心安まる女、天野美汐。
『ぁぅぅ……。美汐が壊れたぁ』
 受話器から聞こえた真琴の言葉は、祐一に向けてのものらしく実に小さかったけれども、美汐は全く聞き逃さなかった。内心だけで真琴に仕置きを実行する。震える小さな身体を繋ぎ止める鎖を鳴らし、涙ながらに許しを哀願する真琴を少しだけ可愛いと思ったしまったところで、慌てて想像を止めた。
「さて、真琴はどっちを選びますか?」
 沈黙。10秒ほどの逡巡の末
『……祐一についてく』
と真琴は答えた。判断に困ったら祐一に頼る。実に真琴らしいと思った。
「判りました。それじゃ相沢さんに代わってください」
『天野、お前何を言ったんだ? 真琴が半泣きで壊れたとか言ってたが』
「相沢さん。あなたには貸しがあったはずですね?」
『何の話だ?』
「今朝、私を泣かせて、詫びに何でもすると、そう仰いましたね」
『あ…………、い、言った……』
「それではその誓約の履行を今求めます」
『……仕方ない』
 祐一が真琴に向かって謝っている言葉が、美汐には小さく聞き取れた。真琴の返事は聞こえなかったが、あうーと泣いているのは間違いないと彼女は想像した。
「相沢さん、復唱はどうしました? すでにあなたには目的地を伝えたはずです」
『A-11abに二人で並ぶ。買うものは新刊全部と、既刊本のみ。グッズは手を出さない』
「はい、そのとおりです」
 奇妙な昂揚感が美汐を突き動かした。
 計算高く面倒は出来るだけ避けている普段からすると実に珍しいことだが、美汐は、激情に支配されるまま、自ら望んだ地獄へ突入しようとしている。
 そして、美汐は送話器に向かって宣言した。
「では。征きましょう、皆さん」
 オンフックボタンを押した美汐は、脇にも後ろにも視線を彷徨わせる事無く、ただ、前に向かって目的地に向かって邁進を始めた。