美坂香里、大学受けます!

〜Caoris Misaca, examinabor ab universitate!〜



 大学の受験というものは、実際にやってみると大した事じゃない。高望みさえしなければ、相当悲惨な成績でもない限りどこかには入れるものだ。
 難しいのは『自分の入りたい大学の合格ライン』に『自分の学力を合わせる』事。
 美坂香里は、この点自信があった。学年主席は伊達じゃない。つい1年前まではその気になれなくて進学など本心から希望してはいなかったが、今年の春から事情が変わった。
 色々ときっかけになる出来事はあったのだが、まあ一番強烈だったのを一言で言えば
「香里はどこ受けるんだ?」
という、気になるあの人の言葉。
 それで、香里は考え出した。きっかけは多少、将来を賭けるにしては不純だと我ながら思ったけれども。
「そうそう、そういえばな」
 そういう切り出しで、祐一は是非とも行ってみたいという大学の話を始め…………



 水瀬名雪は親友の事が心配だった。
 普段は何気ない様子を装いながら、誰も見ていない所で苦しみに悶え悲しんでいた親友。高校2年の正月に進路相談というイベントがあったときも
「進学? ……正直、あまり興味無いわね」
と溜息を吐きながら言っていた親友。じゃあどうするのかという問いにも「どうしようかしらね」と気のない返事しかしなかった親友。
 一体何に苦しんでいるのか、尋ねても彼女は答えてくれなかった。
 名雪にはそのことが、寂しくもあり、悲しくもあった。
 だが、学年が変わる少し前からだったろうか、彼女の様子が一変した。彼女を苦しめていた一切が、消えてなくなったから。
 今まで隠していてごめんね、と彼女が名雪に事情を説明して謝った時の事が忘れられない。本当に良かったと、名雪は思ったものだ。
 だけど、まだ判らないことがある。

「でも……これから、どうするの、香里」
「え?」
 珍しく2人きりの下校途中。突然に尋ねられて香里は戸惑った。話が死病を克服した妹から突然に変わってしまったから。
 名雪は香里の戸惑いを気にする風でもなく、のほほんと続けた。
「大学進学しないんだったよね?」
「ああ、進路の話?」
 うん、と名雪は頷いた。
 香里はちょっと考えた。そしてにっこり笑って
「やっぱり、進学することにするわ」
と言った。
「え? そうなの?」
 香里は頷いた。
「どこ? T大学?」
 名雪が出したのは、この地方で最高の学府と呼ばれる旧帝国大学。工学方面では有名な学校だ。
 香里は頭を振る。名雪は一層興味を引かれた。
「え? え? どこ? 私と同じ所ならいいなあ」
 小学校のクラス変えと同じようなノリの名雪に少し苦笑しつつ、香里は答えた。
「多分、違う所ね」
 あっさりと出てきた親友の言葉に、名雪は目に見えて落胆した。うーと唸りながら香里に背中から抱き着いて
「香里冷たいよー。私のことはどうでもいいの?」
と恨みがましげに。
「ちょっと、名雪、暑いでしょ?」
「香里がどこを受けるのか教えてくれないと離れないもん」
 香里溜息。言わないとは別に言ってないのにと思ったが、これがこの友人の持ち味だと考えて気にしないことにした。
「ちょっとね、挑戦したい人が居るのよ」
「へぇ……香里が挑戦したいんだったら、相当の人だよね……極真カラテの人?」
「……なに、それ?」
 香里の瞳が紅く染まるのを感じて、名雪は慌てて謝った。何が悪いのかは判らないが、こういう時は謝るに限る……と、とある男友達の末路から経験学習していた。
「まあ、いいわ。だからね。私はN大学を受けようと思うの」
 N大学というのは、中部地方那古野市にある国立大学だった。
「なんで?」
 名雪にはその理由がわからない。香里は理系を選択しており、N大学は理系分野で特に何が有名……という売りがあるという覚えは無かった。
「相沢君に教えてもらったんだけど」
「祐一に?」
突然出てきた名前に、名雪は少し驚いた。
「そこの建築学科の助教授と院生が、その地方で起きた殺人事件をいくつも解決してるんだって。あたしもそういうのに憧れてたから、ね」
 そう言って名雪に向かって小さくウィンク。それに相沢君もそこを受けたいと言ってたし、という言葉は名雪には伏せておいた。
 一方の名雪、何か腑に落ちた様子。
「そういえば、香里って昔から好きだよね。名探偵湖南とか、金申一少年の事件簿とか、家政婦は見ちゃったとか」
「そうなのよ〜 ああいう風に事件を解決して
『……覚えておいて、悪事は必ず露見するものよ』
なぁーんて言ってみたいのよ〜」
 香里、声色や口調まで変えて決め台詞らしいものを言った。口に出してしまってから恥ずかしくなった様子で、両腕を振り回してきゃいきゃい騒いだ。背中から圧し掛かってる形の名雪も、これにはちょっと引いた。
「でも、ね」
 背中から聞こえる名雪の声が、少し申し訳無さそうな響きだったので香里は不審に思った。
「その、N大学の助教授って……たぶん犀川って人だと思うけど……」
「あら、良く知ってるわね」
「その人って、小説の登場人物だよ。祐一、喜んであらすじ話してたもん」
「へ? 小説?」
「うん。森……ひろしとかいう人の本だよ、確か。最近、祐一がずーっと読んでたもん」
 その後、名雪による祐一小話が5分くらい続いた。曰く、これから読もうと思ってるのに祐一ったら……とか、自分が好きなものについて話しているときの祐一って眼がきらきらしてるんだよー……とか、祐一と苺って似てるよね……とか。そう言っている名雪の眼がきらきらしていることについては、香里は指摘しなかった。何故なら、そんな事はどうでも良い事だから。
 香里が重要視しているのは、N大学を志望しようと考えた理由の伏せられていた片方。
「で、でも相沢君、N大学を受けるって言って……」
 自分が言い出したことの意味に気付いて慌てて口を噤んだが、もう遅かった。名雪は香里をどこか憐れむような視線で見やり
「祐一は、地元のNI大学を受けるって言ってたよ」
と言った。その学校は、名雪がスポーツ推薦で受験すると決めた学校だった。今の祐一の学力でも無理なく受けられそうな、そんな地元大学だ。
「え? そんな……あたしには」
「祐一が何を言ったか知らないけど……」
 名雪の視線に優越感が仄かに含まれていたような気がしたのは、香里の気のせいだろうか。
「N大学なんて遠いし、『そんな人が居るなら受けてみたい』という話だったんじゃないかな」
 香里は、祐一に話を聞くことに決めた。鋼鉄の意志と拳とをもって。



 翌朝。部屋にまで押しかけて来られて優しく起こされた上、
「相沢君。ちょっと話があるんだけど、付き合ってくれない?」
などと紅潮した頬ともじもじした仕草のコンボで香里に誘われた祐一は、のこのこと彼女に付いて行き、その日の午前の授業に現れなかった。午後になって香里に付き添われて教室に顔を出した祐一をみて、男友達Kは
「相沢、随分とボロっちくなったな」
とコメントした。
 ちなみにその直後に回収された進路希望調査票に、相沢祐一は第一希望として
『丹下ボクシングジム』
と書いて大目玉を食らったそうな。
 程なくして、美坂香里は志望先をT大学に改めた。
 突然のボクシング転向宣言に戸惑ったのは名雪だった。嘘だよね、冗談だって言ってよとの懇願にも祐一は言を左右するだけで明言しなかった。
 相沢祐一の実際の志望校がどこになったかは、慎重な情報統制が行われた結果、3ヶ月もの長きに亘って、名雪の懸命な捜査にもかかわらず、明らかにならなかった。
 ただ夏休みに突入した頃から、勉強道具を満載した鞄を持ち、涙を零しながら図書館に日参する祐一の姿が見受けられたという。図書館ではウェーブがかったロングヘアの女の子に個人教師をして貰っていたという噂もあったが、真偽のほどは定かではない。

(終われ)



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