無分別と、碑文と

〜Stulti amantes in balneo〜



 からり、と扉は重さを感じさせない軽やかな音を立てて開いた。
 何事かと向けられる視線。そこには男、相沢祐一が立っていた。
「「きゃーっ!?」」
「よお、マコピー。一緒に風呂に入りに来たぞ」
 風呂場に上がる悲鳴。それに気付かなかったかのように、祐一は片手を上げて宣言した。
「な、な、何をとち狂った事口走ってんのよぅっ!?」
 真琴は腕をぐるぐる振り回して暴力に貫かれた不服従の姿勢を顕わにしたが、そんな事で怯む祐一ではなかった。
「はっはっは。良いじゃないかマコピー」
 にこやかでフランクなスマイルを浮かべながら、真琴に近づく祐一。真琴はじりじりと引き下がりながら、自分の身体を守るようにぎゅっと腕で包んだ。
「そ、それ以上近づかないでよねっ! 近づいたら、舌を噛んでやるんだからぁ!!」
 真琴は、舌を噛むという事の意味が判らない。風呂に入る前に読んだ漫画にこのような暴行未遂シーンがあり、ヒロインの女性がそう言っていただけのことだ。
「馬鹿だな……」
 突然優しい目になった祐一は、緩やかな動作で真琴を腕の中に収めた。
「俺達、もう夫婦だろ?」
 腕の中に収まった真琴は、先ほどまでの激しい抵抗が嘘のように大人しくなっていた。祐一の指が優しく紅くなった頬を撫でて、真琴は恥ずかしそうに「あぅー」と唸った。
 祐一は纏められていた真琴の髪から解れ出したひと房を掬い取り、ゆっくりと撫で、口付けた。
「もう俺達の間で隠したり恥ずかしがったりすることなんか無いだろう?」
「でもでもっ! 祐一はデリカシーがないのよぅ……」
 真琴の言葉にもさっきまでの勢いが無い。
「もう少しムードってものが……」
 拗ねたような真琴の言葉は、祐一の唇で強引に途絶えさせられた。
 吃驚して鼻から息を漏らした真琴。
 口の間からちゅむという湿った音が響きだすと、鼻から漏れる息に甘い響きが加わって行く。
「んもー。強引なムード創りってはんたーい」
 数分後、荒い息で深呼吸を繰り返した真琴は、そう祐一に抗議した。
「んな事言っても、真琴もノってやってたじゃないか」
「ぁぅー だって……」
 ざぱん。
 結構間の抜けた音だった。
 風呂桶のお湯を突然に掛けられた祐一と真琴は、半ば呆然として風呂桶に視線を移す。
 そこにはタオルを胸に巻いて、何故か真っ赤な顔をして小さく震えている天野美汐が居た。
「2人とも……私の事はマル無視ですか?」
「……天野、いつからそこに?」
「最初から居ましたよ、相沢さん」
「天野、風呂の中で何で震えてるんだ」
「……それはですね。どこかの無神経な男が女の子2人が入っている風呂に乱入した挙句ラブシーンを展開しはじめ、出るに出られず、割り込むに割り込めず、どうしようかと思案した結果、意を決してお湯を掛けて強引に中断させたというのに、実は最初から存在を認識されていなかったなんて知ってしまったからですよ」
「……あぅ……もしかして、美汐、怒ってる?」
「いいえ、真琴。あなたに怒ってはいませんよ」
「もしかして、俺にか?」
「相沢さん。私の怒りは、ちょっとやそっとじゃ収まりません。そうですね。この気持ちは記念碑として残したいくらいです。
 毎年この日は相沢さん追悼記念日ですね。アニバーサリィです。許せませんよ、本当に」
「ま、待て天野。話せば判る!」
「話し合って、女の子の入浴に無断で割り込む男のメンタリティの何処が理解できるのか、そこから理解に苦しみます」
「あ、あぅー 美汐、実はすごく怒ってる?」
「ふふふ、涙目が相変わらずらぶりーですね真琴。待っててください。すぐに相沢さんを片付けて、あひる隊長のようにしっかりじっくりねっとり可愛がってあげますからね真琴」
 湯船の中で、あひる隊長がお湯の飛沫を浴びて、ちゃぷんと鳴いた。


 後日、真琴と美汐からプレゼントされたルームプレートは、祐一の知らないうちに部屋のドアに固定されていた。磨かれた花崗岩のようなそれは、祐一がどんなに引っ張っても捻っても抉っても炙っても取れなかった。
 あまりの事態に祐一は秋子さんに救済を求めるも
「女の子からのプレゼントは大事にしてあげるものよ」
の一言で却下。
 祐一はあまりの事態に名雪に緘口令を布き、親友たる北川も家に招待せず、頑なに秘密を守り通そうとした。



けだもので
えっち星人で
デリカシーがなくて
いつも真琴の事を泣かせる
だけどだいすきな

あいざわゆういち




 そんな碑文が栞に知られるのは1週間後。香里が知るのはその4時間後。
 ちなみに秘密の漏れ易さは、口の軽さを考慮に入れなければ、単純に秘密を知る者の数の三乗に比例する。




(終わって、ください)



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2002/11/26 誤記修正(『舌を噛むをいう意味』→『舌を噛むという事の意味』)