秘密の戯れ

〜Specialis ludus〜



 レールの継ぎ目を車輪が拾う音はいつもながらリズミカルだ。ただ聴き続けるのは退屈で眠気を誘うだけだが、今のように本を読むときのバックグラウンドとしては申し分ない。実際、私は読書を楽しんでいた。
 長い夏休み、私は列車で旅をしているのだ。盆も明けた平日の昼間、私の住んでいる街へ向かう特急列車は空いていた。少し疲れているけれど、こういうのも、悪くはない。このように座って本が読めるのならば。
 不図、頬に風を感じた。エアコンの風じゃない、誰か人の動きで起こる風。誰かが隣の席に座ったようだ。
「よ」
 突然にその人に呼びかけられて、私は読んでいた本を閉じて顔を上げた。
 横の席に座ったのは。
「あ、相沢さん!?」
「よう、天野。こんなところで会うなんて奇遇だな」
 相沢さんだった。私の親友の想い人で、私の大切な同志で友人で先輩。ああ、私にとっての相沢さんとの関係の重要性は、今の順序のとおりだ。
 この人はいつも唐突だ。登場も、発言も、行動も。だから心臓に悪い。今の登場も私をかなり驚かせた。
「私はちょっとした旅行です。相沢さんこそ、どうしてここに?」
「俺は元々こっちが実家だからな。久しぶりに知り合いに会いに出た帰りってところだ。
 へぇ……それにしても天野1人で東京詣でか? 東京タワーには登ったか?」
「相沢さん。いくら私でもそこまでじゃありませんよ」
 勘弁して欲しい。東京詣でという言葉は、いったい何時に流行った言葉なのだろう。事あるごとに私のことをおばさんくさいと相沢さんは言うが、そんな言葉がすらりと出てくる相沢さんも相当のものだと思う。東京タワーには……まぁ、ちょっとだけ登ったけど。サンシャイン水族館の方が印象的だった。
「それに、私東京は初めてじゃないですから」
「そうなのか?」
「ええ、最近は……」
 素直にそのまま言いかけて、慌てて頭に浮かんだ言葉をクッションとフィルターを何重にも通した柔らかい表現に組替えた。
「東京の方にも友達が出来たんです」
 そして出来るだけにこやかに微笑んでみせた。慌ててやったから、成功したかどうかは良く判らない。
 それにしても危なかった。有明で5時間並んだ挙句に本を買ってたんですとは、さすがに言えない。
 相沢さんと話しているといつもこうだ。喋らなくて良い事まで、考えもなく喋ってしまいそうになる。それがこの人の良い所なのか悪い所なのか。全く、評価に困る。
 でも、そういう点が好ましくない訳じゃない。相沢さんの傍に居ると誰もが素直で綺麗になれる。そういう空気がある。
「そうか。天野も友達の範囲が広がったんだな」
 相沢さんはしみじみと言った。そう言われると、いかにも以前は私の友達が少なかったと言われてるみたいで少しだけむっとしたが、そのとおりなので何も言えない。
 それに、考えてみたら友達が出来るようになったきっかけは、誰あろう相沢さんなのだ。他人と交流したがらなかった私に、転換のきっかけと勇気をくれたのは彼だった。
「それは相沢さんのおかげですよ」
 私がそう言うと、相沢さんは照れくさそうにして「そんなことは無い」と返した。こういう謙虚さは、とても大切だと思う。相沢さんの持っている美徳のひとつだ。
「で、東京の友達って、どういう知り合いなんだ? 引越しでもないのに遠い場所に友達が出来るなんて珍しいよな」
「趣味を通じて知り合った人です」
「天野と話が合うとは、なかなか渋い人なんだろうな」
 これは相沢さんの悪いところのひとつだ。悪口なのかどうなのか判断に困る言葉をよく口にする。本人にはそういうつもりは無いのだろうが、聞く人によっては馬鹿にされたと感じるだろう。
「とても良い人ですよ。相沢さんと違って、意地悪を言いませんし。
 それに相沢さん。この場に居ない人のことをそういう風に言うのはマナー違反ですよ」
 軽く嗜めることにする。
「そうだな。悪かった」
 こういう素直なところも相沢さんの良いところ。反応が良かったので思わず頬が緩んでしまう。
「だから、今目の前にいる美汐を苛めることにしよう」
「ぇ?」
 しかし、相沢さんは只で素直になったのではなかった。
 相沢さんのモードが切り替わった。相沢さん曰く『いぢめっこモード』だそうだ。そのモードになったときは、私の呼び方が苗字から名前に変わる。私が名前で呼ばれると恥ずかしがるからだ。女の子(私だって、まだ高校生なのだ)の恥ずかしがる様を見て喜ぶなんて、なんて趣味だろう。
「それでさ」
 ほら来た。モードが変わっているのは先刻承知なので、精神にプロテクトを張り巡らせる。何を言われても良いように。
 こういうモードの相沢さんは本当に危険だ。常に警戒していないと何を言わされるか判った物じゃない。私は咄嗟に予想できる相沢さんの言葉と、それに対する模範解答の組み合わせをいくつか考えた。
「美汐が行ったのって、何処なんだ?」
 勝った、と思った。その質問に対する回答は、今用意していたから。誰にどう勝ったのかなんて訊かないで欲しい。試験の山当てが当たったときとおなじで、そんな事は本質とはかけ離れた些細な小事なのだ。
「はい、葛西臨海公園の傍で泊まって、4日の間に……そうですね。渋谷、新宿、池袋、御台場を廻ってみました」
「へえ。若者っぽいのかそうでないのか良く判らない取り合わせだな……」
「相沢さん……そんなことをおっしゃいますか?」
「でも、それだけ廻ったにしては荷物が多くないな。何を買ったんだ?」
「……女の子に少し不躾ですよ」
 なるべく不機嫌そうに聞こえるように、そう言った。
 でも、これはポーズ。この質問に対する答えも用意してある。防御は……万全だ。
「ああ、そうなのか?」
 またも相沢さんは素直に引き下がる。
 でも、私は答えたくない訳じゃない。不機嫌そうな表情を引っ込めて、こんどはできるだけにこやかに答えた。
「最初の質問の答えは『小包で送った』、次の質問の回答は……『洋服』です」
 心の中で、それだけじゃありませんけどね。と付け加える。でも黙っているだけなら、罪じゃない。
「……へぇ。美汐が洋服か」
 何というところで感心しているのだろうか、この人は。これこそ不躾だとは思わないのか。
 私だって女の子なのだ(このフレーズを多用するのは是非とも避けたい)。余所行き用の洋服を買ったりもするし、そしてそれには洒落っ気を利かせたい。
「意外ですか?」
「いや……考えてみたら、美汐の服の趣味って知らないからな。どんな服を買ったんだろうって思ったんだ」
 この質問への回答は勘弁して欲しい。他人様にお見せできないようなふざけた服装という訳ではないのだ。ないのだが、相沢さんには、出来るなら秘密にしておきたい。この事でからかわれるのはきっと確実だから、この先もずっと。
「まあ、美汐の事だし……」
「おばさんくさい服装、ですか?」
「いや、そう見せかけて実は可愛いレースをふんだんにあしらった、思わず着るのが恥ずかしくなるような服だろう」
「なっ……ぁ?」
 しまった。反応を間違えてしまった。相沢さんは予想外に鋭かったのが原因だ。大体なんであんな想像をするのか。相沢さんなら私のことなんか『おばさんくさい』と一言で斬って捨てるはずなのに。こんな場合の回答なんて用意していない。
 自分の反応が恥ずかしくて、顔が赤くなるのが自覚できた。きっと今の私の顔は真っ赤に火照っているだろう。そんな表情を相沢さんに見られるのは……なんだか負けたようで悔しすぎる。
「違うか?」
 私は赤くなった顔を見られないように俯いていたが、解る。相沢さんはいまニヤリと笑っているに違いない。
「の……っノーコメントですっ!」
「今度見せてくれよ」
 そう言って相沢さんは笑った。
 なんと……なんという恥ずかしいことをさらりと言ってのけるのだろうか、この人は。女の子が(しかも恋人でもない人が)洋服を買って、それを見せてくれと何の躊躇いも無くさらりと言えるというのは、一体どういう神経だろうか?
 そして私。なんという反応だ。当たりだとも外れだとも明言はしなかったが、相沢さんも気付いている。私が動揺している事に。
「美汐の勝負用の洋服か……きっと可愛いだろうな」
 笑いの要素を多分に含んだ声で相沢さんは追い討ちを掛ける。
 一方的にからかわれるのは非常に不本意だ。それに相沢さんにいけない癖をつけてしまう。相沢さんのためにも少しくらいは反撃しておかないと。あ、これって子供を躾る母親みたいだ。
「相沢さん……私、可愛いですか?」
 いかにも恥ずかしげな様子を装って、私は相沢さんを見上げてみた。うまく上目遣いになっているだろうか。
「おう、なんというか美汐のその恥じらい具合が俺のハートにギューだ」
「そのこと、真琴にも伝えておきますね」
 相沢さんの返事を聞いて、私は微笑んだ。
 真琴は、私の親友で相沢さんの恋人。天真爛漫で素直な子。私が言えば簡単に信じるはず。それに嘘は伝えない。
「ぐぁ」
「真琴に会ったら……相沢さんが私の隣の席にやってきて、言葉でねちねちと散々苛めながら恥ずかしがる私を眺めて楽しんで、私のことを可愛いって、その恥じらう姿がハートに来るって言ってくれたと、そう伝えておきますね」
「あの……そういう言い方は誤解を招……」
「真琴はどう思うでしょうね……相沢さん、楽しみですね」
 相沢さんに向けて私が出せる最上の笑顔を。
「あー、俺の負けだ。悪かった、天野」
 あ、モードが戻ってる。

 少しだけ勝利の余韻に浸っていると
「ところで……さっきから気になってたんだが」
と、相沢さんがゆっくりと切り出した。
「さっきから読んでいた本、それは何だ?」
「はい?」
 その質問は盲点だった。何の準備も出来ていない。それより、私は手にその本を持ったままだった。何故仕舞わなかったのだろうか。
 そんな事よりも、どう答えるべきだろう? いや、そもそも答えられるのだろうか?
「なになに……『雪降る街で組体操』? なんだこのタイトルは」
「あ……勝手に取らないで下さいっ!」
「表紙は少女漫画みたいで……中は小説だな」
「よ、読まないで下さいっ!!」
「『雪明かりに照らされた道を静かに華やかに六花が舞っていた。相沢祐一……』……って俺?」
「それ以上は止めてくださいっ!!」
 質問に対する回答を考えている間に、気がついたら手に持っていた本を相沢さんが勝手に開いていた。私の必死の制止も相沢さんには効き目が無い。相沢さんは更にページを進めて中盤の辺りを開いた。
 いけない。あの辺りは2番目くらいに見られたくない所だ。私は何とか相沢さんの手から本を取り戻そうと隣のシートに身を乗り出した。
「相沢さん、返してください」
 困った。
 私は必死で手を伸ばすけれど、相沢さんは私の手を避けて本を通路側に持っていってしまった。
「こら、天野、読めないじゃないか」
「知りませんっ!」
 文句を言う相沢さん。でも、聞く耳なんか持ち合わせていない。読ませないためにこうしてるのだから。
 しつこく相沢さんは本を通路側で振っている。もう……往生際が悪いと言ったらない。
 仕方なく私は腕をもっと伸ばすために、相沢さんの胸板に手をついて更に身を乗り出し……
「えー。お楽しみのところ済みませんが」
呼びかけられた。
「乗車券を拝見させて頂けますか?」
 見ると……通路に車掌さんが。にこにこと笑いながら立っていた。
「え?」
 きっと私の答えは間抜けに思われたに違いない。自信がある。車掌さんの出現でクールダウンされた(この状態を『我に返った』というのだろう)私の頭脳の一部が、『お前の姿は間抜けで情けないぞ』と警告を出していた。
 姿。
 そういえば。
 私は顔を下げて見下ろした。私に圧し掛かられた形になっている相沢さんが、ひどく赤面しながら硬直していた。その距離は10センチ足らず。
「あ……」
「あ?」
 何かが言いたいのに声にならない。言葉が出て来ない。こういうことは滅多に無い。
 相沢さんも赤面しながら訊き返してきたが、私にも何と言っていいのか判らない。
 ただ判るのは、こんな距離に相沢さんが居る事が異常だということ。この距離は恋人の距離だ。
「……あ、相沢さんがなんでこんなに近くに居るんですかぁ!?」
「それはな、美汐」
 あ、またモードが変わった。
 どこか一部分だけ冷静な私の頭脳はそんな事を分析していた。
「お前が圧し掛かってるからだ」




「『執拗な舌技がジュンの屹立した慾張りん坊を責め苛んで、ジュンの線の細い秀麗な貌を歪めさせた。その様子にユウはニヤリと哄った。
「待ってくれよ、ユウ。オレ、もう出ちまう……!」
「へへっ。良いんだぜ、出しても。俺を汚してみろよ」
 ユウは一層粘液音を激しくして、苦しく悶え震えるジュンの紅黒い慾…………』……って! 天野、まさかっこれ……」
 その後美汐が寝入った隙に、思わず途中から本を読んでしまって(しかも音読だ)ブルーになってしまった相沢祐一だが、根の部分で中途半端に紳士的な祐一は美汐が読んでいた本についての一切合財を忘却の彼方へ叩き込み、口に出すことは無かった為、乙女の秘密は守られた。

 また後日に、上京時に美汐が買ったという洋服も見ることが出来たのだが、それはまた別の話。

(もういいから終われ>自分)



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2002/06/21 誤字修正