人類猫科

〜Homo catticum〜



「あははーっ! 祐一さん、お迎えに上がりましたーっ!!」
 それは、いつもの昼食時の風景。
 結構恥ずかしくて照れるのだけどこういうのも悪くはない、と祐一は思っている。

 祐一には舞と佐祐理さんが必要で、2人にも祐一が必要で。お互いに求め合って支え合える関係というのは、ちょっとやそっとで築けるものじゃない。今そういう人たちと一緒に過ごせるというのは、本当に幸せなことだ。

 それが偽らない祐一の気持ちだ。
「さあ、行きましょう祐一さん」
 席までやって来た2人に軽く応えて立ち上がった祐一は、その時になって初めて異状に気付いた。
 生えていた。気が付いたら。
 そして消えていた。いつのまにか。
「……佐祐理さん、その頭」
「あははーっ! 佐祐理、猫になっちゃいましたーっ」
 生えたもの、汝の名はネコ耳。去ったもの、汝の名はヒト耳。
 ああ、さようなら、人間さゆりん……。
「ね〜〜〜〜〜〜〜〜こぉ〜〜〜〜〜〜〜?」
 最初は、それが人の声だとは気付かなかったんだ、祐一は後にそう漏らした。
「名雪?」
「ね、ねこさん……こんにちは」
「名雪さん、こんにちはーっ!」
 さっきまで眠っていた吾が従妹殿は立ち上がって荒い息でご挨拶。うにゅ、と頭を下げると佐祐理も負けずにお辞儀返し。
「そしていただきます」
 短くそう言うと名雪は佐祐理に飛び掛った。


 ……今日も今日とていつもの場所で。
 猫を感じて周囲が見えなくなった名雪から佐祐理を逃がすのは大変だった。
 上品に味の沁みた煮付けを口に運びながら、祐一は目を閉じて『その時』を思い出す。

「ええい、やめんか!」
 祐一は慌てて立ち上がり、危ういところで名雪の腕を引き捉まえた。
 信じられない力で名雪の腕を掴んだ手が引っ張られる。このままでは抑え切れない、そう判断したらすべきことが見えた。
 祐一は佐祐理と舞に向き直って薄く不敵に笑った。
「さ、佐祐理さん、舞、先に行っててくれ」
「はぇ? 一緒に行きましょう祐一さん」
 不審を感じたのか。佐祐理は訝しげな表情で祐一を誘う。ぴんと立っていた耳が、幽かに傾いで震えた。
「俺にはやらねばならない事があるんだ」
 ねこさーん、と唸り声(?)を上げる名雪の腕を精一杯抑えながら、祐一は言った。無理やりに力を引っ張り出しているためか、浮かんできた冷や汗が頬を伝う。
「後から必ず行く。だから今は佐祐理さん達だけで行ってくれ」
「……駄目。祐一もいっしょ」
 舞もが祐一を寂しそうに見ながら言葉少なに言った。その眼は不安に揺れている。祐一の悲壮な決意を鋭敏な感覚で嗅ぎ取ったのか。
「舞。大事なことだ。良い子だから聞いてくれるよな?
 お前は佐祐理さんを守って、ちゃんといつものところに行くんだぞ。俺が行った時に2人で待ってくれないと酷いからな」
「酷いって、何をするの?」
「泣く」
「酷く?」
「酷く」
 何を考えたのか、舞の表情が歪んだ。
 そして無言で佐祐理の手を握り、強引に教室の出口に向かって引っ張った。
「舞? ちょっと、祐一さんが」
 訳が解らない佐祐理は、舞を引き留めようと握られた左手を引く。しかし舞の力には敵わない。舞はそのまま佐祐理の手を引いて教室を出ようとして、振り返った。
「……待ってるから。いつまでも待ってるから」
「行け! 間に合わなくなるぞ!」
 こくん、と頷いて、舞は佐祐理を連れて出て行った。

 佐祐理達が居なくなるまでは大変だったが。
 だがまあ、抑えていた名雪を香里に預けてしまえばあとは楽なもので。
「ちょっと相沢君、あたしどうしたらいいのよ!?」
とか途方に暮れて叫んでいた香里を置いて祐一はここに来ただけだった。悲壮でも何でもなかった。
 祐一の箸が一瞬止まる。
(…………後のことを考えずにやったのは拙かったかも)
 5時間目の前は、香里の査問委員会(会員:美坂香里(委員長兼務)、水瀬名雪(刑執行員))が開催されるに違いなかった。
 まあ良いか、と祐一は自分に言い聞かせた。それよりも今は別に考える事がある。
「ところで佐祐理さん。その耳だけどさ……」
とりあえずは佐祐理の耳の事が気になる祐一だった。20分後の自分の運命よりは、幾分か。

 佐祐理の説明を数分間聴いて。それでもやっぱり祐一は腑に落ちない。
「……と、何故だか知らんが耳がこうなってて?」
 言葉を切って祐一は確認した。
 舞が小さく頷く。
「それでもって、今は隠してて見えないが尻尾も生えていると」
「はい、生えてましたー」
 今度は佐祐理が頷いた。
「なのに、他の部分はちゃんと人間で、思考も嗜好も人間の頃のまま、と?」
 今度は二人でこくりと頷くまいさゆりん。
「あ」
 小さく声を上げる佐祐理。祐一は頷いて先を促した。
「そういえば熱い飲み物は駄目になったんですよー」
「……つまりは猫舌、というわけか?」
 祐一ちょっと思案顔。内心では『担がれてるんじゃないか』とか『あんでネコなんだよ。佐祐理さんなら犬だろ、犬』とか、本人にしか理解できない色々な思いが渦巻いている。むしろ本人以外に理解されてはいけない、舞に知られたらボコられるような危うい思い。
 一応、祐一はもう一度確認をとってみることにした。
「マジか佐祐理さん?」
「はい、まじですよ」
 さゆりんにっこり。裏も表もないような、純粋無垢な笑み。
 眩しさにちょっとくらっと来て理性の弱さについての考察の材料が出来たところで、ようやく踏みとどまれた祐一はこれが現実かどうか思案した。しかし、どう考えても人間がこうなる原因も過程も理解できない。
 佐祐理の頭に視線を向けてみる。普段のとおりのさらさらロングヘアーは今日も健在だ。ただし、見慣れない耳がぴょっこり出ている。本来人間の耳があった部分もいつもどおり、髪に隠されて見えない。
 視線を少し下に移す。レジャーシートに膝を崩して座っている佐祐理。黒い膝上ソックスにつつまれた小さい膝小僧がちょっとラブリーだと祐一は思った。崩している為に少し開き気味の太股の奥は、スカートで巧く隠されている。ちょっと際どい境界線がポイント高いのだが、それを故意に演出してるのならば侮れないぜ佐祐理さん。
 もちろん、尻尾が生えているかどうかは見ただけでは判らない。
「ふぇ……祐一さん、どこを見てるんですか!?」
 佐祐理は祐一の視線に気付くと、真っ赤になってスカートの裾を引っ張って祐一からその奥が見えないようにした。舞は祐一に向かってすかさずチョップ。
 恥らう佐祐理がものめずらしくて、ちょっと祐一の胸がドキドキしたのは2人には内緒だ。
「でもなあ……こういう事って普通起こらないし、俺は本当に猫になったのかどうか見てないからちょっと信じられないぞ」
「見てみますか?」
「え?」
「佐祐理が猫になった証拠……見てみますか?」
 内心を隠して言い繕った祐一に、頬を紅潮させた佐祐理が少し恥ずかしそうに言った。俯き加減の上目遣い、スカートの裾にやった手も、もじもじと所在無さげ。
 その様子に祐一は心を撃ち砕かれた。
「勿論……見せてくれるなら是非とも見たいぜ、佐祐理さん」
 祐一は普段とは全く違う雰囲気を纏い始めた佐祐理に、完全に飲まれていた。承知する、その言葉すら掠れている。
「あ、あははーっ では、見てくださいね祐一さん……」
 佐祐理は軽く握りこんだ右手で紅潮した頬や口を隠しながら、膝を滑らせてゆっくりと祐一に近付き、その広い胸板に身を委ねた。
「佐祐理さん……いいのか?」
「……はい。恥ずかしいですけれど、祐一さんなら……」
 無意識のうちに唾を嚥下して、祐一の喉が小さく鳴った。その音が心なしか大きく響いて、祐一の心臓が一際大きく音を立てた。恐る恐る手を伸ばす。尻尾が生えているという、佐祐理の腰に。
「ふぇ?」
 指先がが軽く、柔らかな曲線をなぞるように触れた瞬間、小さく痙攣するように背筋がピンと伸び、佐祐理は小さく声を上げた。
 祐一は佐祐理の瞳を見つめた。佐祐理の眼は驚愕に見開かれ──驚愕? そして見る間に涙で眼が潤んでいって……。
 佐祐理の表情に疑問を抱いた瞬間
「ふえええぇぇぇぇぇっ!!」
自らの間違いを悟ったが、遅きに失したと言う他は無い。


 数分後の相沢祐一は、満身創痍まで後一歩というほどの怪我で保健室に担ぎ込まれた。
「もうっ! 信じられません」
 さゆりんぷりぷり。
「祐一が悪い」
 舞もぷりぷり。
 先ほどの祐一の不躾に、佐祐理は怒っていた。怒っていながらも、激しすぎる舞のツッコミに動けない祐一の世話を甲斐甲斐しく焼いてあげるのは育ちの良さか。
「ごめん、佐祐理さん、舞」
 一方、祐一はひたすら謝るしかない。
 事の顛末は簡単で──大抵の場合、顛末というものは後になってしまえば簡単なものだが──佐祐理が見て欲しいと言っていたのは頭の耳であって、決して隠してあった尻尾ではなく、当然頭を触ってくるだろうと予想していた祐一の手が腰を撫でた事に佐祐理は驚き、悲鳴を上げ、かくして祐一は舞にボコられたという次第だ。
「祐一さんなんか、もう知りません」
 ベッド脇の椅子に座ったまま、ぷいっとそっぽを向く佐祐理。
「佐祐理さぁん。このとおりだから」
 祐一は謝りどおしだが、佐祐理の怒りは解けないようだ。
「どうして、あんな事したの?」
 舞が動けない祐一の眼を覗き込んだ。星さえ浮かんでそうな澄んだ瞳に、罪悪感を煽られて身動ぎする祐一。
「あぁ……その、佐祐理さんが見せてくれるのが、隠れてる尻尾だと思ってな。いや……。どっちかって言うと、そうだったら良いなと思ってたのかも」
 佐祐理の手が止まる。
「あの……。祐一さん、それって」
「どっちにしろ考え無しだった。すまない。佐祐理さん」
 赤くなった佐祐理に、もう一度祐一は手を合わせた。

 複雑な表情を浮かべた佐祐理が小さく頷いた時に、丁度チャイムが鳴った。
 祐一は上半身を起こそうとして、腕と肩と腰に走った痛みに顔を顰めた。肩と肘に入れていた力ががっくりと抜ける。
 佐祐理の腕が祐一を支えようと動いた。が、ぴくりと動いたに見えただけで咄嗟に腕は止まってしまった。代わりに傍に控えていた舞が腕を祐一の肩の下に滑り込ませたお陰で、祐一は倒れ込まずに済んだ。
「大丈夫?」
「さんきゅ」
 舞に支えられて何とか上体を起こした祐一は短く礼を言い、壁に掛かった時計を見た。
「もう予鈴か。戻らないと……」
「駄目。もう少し休まないと」
 肩を支える舞がきっぱりと祐一の言葉を却下した。怪我させた本人が言うのだから世話は無いが、その事については誰も疑問を持たなかった。だから佐祐理も祐一に言った。
「そうですよ。祐一さんは無理せず、休んでください」
「だけどなあ、授業ぐぁ」
 反論しようとした祐一を舞が腕力でぴしゃりと遮ったところで、仕切りのカーテンが開かれた。
「もう授業が始まるが、大丈夫か?」
 保健室の主、校医だ。
「ちょっと調子が悪いようなので、もう少し休んでいきますね」
 祐一に返事をさせる暇を与えずに佐祐理が校医に答えると、彼は軽く頷いた。
「それで倉田達はどうする?」
 佐祐理達3年生には、もう熱心に受けるような授業が無い。自主登校し、希望する者は授業を受けるという状態だ。この時期、佐祐理と舞の進路は既に定まっていて、受験の為に勉強する必要も無い。
 だから佐祐理の言葉に躊躇いは無かった。
「看病します。私の、せいですから」
「そうか」
 佐祐理の答えを聞くと校医は少し考えるような仕草を見せた。
「俺はちょっと席を外すよ。この部屋はタバコ禁止でね。ここは任せるから、何かあったら屋上に呼びに来てくれ」
 執務机に置かれたソフトパッケージとライターを掴んで、校医は右手を軽く上げて保健室を出て行った。
 途端に静かになる保健室。
 何か耐え難いものを感じた佐祐理は小さく身動ぎした。
「あのさ……」
「佐祐理、ちょっと」
 何かを言いかけた祐一の言葉を遮るように、舞が佐祐理の手を引いて立ち上がるように促した。

 佐祐理を連れて保健室の外に出た舞は、佐祐理の肩を掴んで自分の方に向かわせ、目を覗き込みながら尋ねた。
「どうして止めたの?」
 舞はいつも言葉足らずだ。言外の意味を正確に読み取らなければ意思の疎通が出来ない。佐祐理は舞の意思が解る数少ない人間の一人だ。言葉少ない舞の表情や目を見るだけで、彼女の言いたい事は解るのだ。
 しかし、何故だか今だけは舞の表情に靄がかかったかの様に思考が読めない。目を少し細めてみる。相変わらず舞の言いたい事はわからなかった。
「はぇ? 何のこと……?」
「手。祐一を助けるの、途中でやめた」
 舞の言葉は淡々としていて、それでいて罪の告発めいている。
 佐祐理の肩が小さく震えた。
「どうして?」
「ふぇ……」
 舞は問いを繰り返したが、佐祐理には告発に対して返す言葉も無かった。告発と言うよりは思ってもみなかった事を言われた、と言うべきか。
「どうして?」
「……佐祐理にも解らないよ。」
 佐祐理は白状した。途中で腕を止めてしまった事は、解っている。何故そうしてしまったかは、無意識下での決定であり、解らない。
 佐祐理の言葉を聞いた舞が、俄かに表情を曇らせた。
「祐一の事嫌い? 喧嘩したの?」
「そんな事ないよ! 佐祐理も祐一さんの事は大好きだよ」
 どうやら舞の中では、佐祐理の振る舞いは二人が仲違いをした為だとされているらしい。半分泣きそうな舞の顔に慌てた佐祐理は、両手をぶんぶんと振って否定を表現した。
「だったらちゃんと仲良くしないと駄目」
「はぇ?」
「佐祐理、ちゃんと祐一を看病してあげて」
「舞?」
 言い捨ててすたすたと保健室から去ってゆく舞を追おうとして、祐一の存在を思い出して躊躇い、結局佐祐理は呆然と舞を見送った。


「舞はなんて?」
「良く判らないんですけど、祐一さんを看病して欲しいって」
 そう言って、佐祐理がベッド脇の椅子に座ってしまうと、途端に場が静かになった。
 看病するとはいっても、祐一はあちこちに受けた打ち身で保健室に担ぎ込まれただけであり、差し当たっての手当てさえしてしまえば後は大してやる事が無い。祐一がベッドに寝かされているのは、鳩尾に受けた舞ツッコミのダメージが回復するまでの一時的なものだ。
(……何だか息苦しい)
 何だか余所余所しい雰囲気、と言うべきなのか。それとも、居た堪れない空気とでも言うべきか。じりじりと焦がれるような空気、しんとした部屋、そんな中で唯一聞こえてくるやけに大きな壁時計の秒針の音。
 佐祐理は何だか居心地が悪かった。普段なら、祐一と2人きりで居てもこんな空気にはならないのに。やはりさっきの事を気にし過ぎているのだろうか。
 祐一がもぞりと動いた。
 小さな祐一の動きを感じて、佐祐理の肩がぴくりと動いた。
 やはり、気にし過ぎているのだろう。今までで、祐一と居てここまで彼の事を意識した事は無かった。これが恋愛感情ゆえの意識であればもう少し華があろうというものだけど、生憎と祐一は佐祐理に許してもらいたくて、一方佐祐理は祐一を許すきっかけを探す為に、互いの気持ちを探っているようなものだ。
 そんな事を考えて、佐祐理は内心だけで苦笑した。
 いい加減にこの空気には嫌気がさしていたし、この雰囲気が後に尾を引くのも本意ではない。何より祐一は反省しているのだ。何でもいいからきっかけを作って祐一を許そうと思ったところで
「ごめん、本当にごめん佐祐理さん! 何でもするからもう許してくれないかな?」
祐一はそう言った。無論のこと、祐一の申し出は佐祐理としても望むところだ。それどころか
「……本当に、何でもしてくれるんですか?」
「許してくれるんだったら、勿論」
望外の収穫さえ得たかも知れない。
 えへんと可愛らしい咳払いをしながら
「それじゃあ、許してあげます」
佐祐理はにっこりと笑った。


 誰もいない校舎の屋上で、保健医は鉄柵に寄りかかってフェンス越しに見える空を眺めながら、口から煙を吐き出していた。
 グラウンドで体育の授業が行われているのが見えている。体操服の学生たちが、バラバラに走っていた。
「若いねえ」
 何故だか、学生達を見ていると、自身の若さが吸い取られるような感じを保健医は感じていた。まだ30歳にもなっていないのだが、どうしようもない生物的な変化により運動能力は衰え始めている。高校生達と全く同じように過ごすことは出来ない。
 体力同様、それを認めることはとても悔しい事だったが、学生と話をすると自分の考え方や感じ方が老成しつつあると感じることもしばしばだ。そのように感じる瞬間が、保健医は嫌いだった。
 『若い』という世代から離れつつあることを寂しいと感じるだけの憧憬を、保健医はまだ若さに抱いている。もう暫くしたら、衰えを諦観とともに受け入れられる時が来るのだろうか。
 空に目を向けた。小憎らしいまでに爽快な晴天だった。青い空に細く煙を棚引かせながら保健医はかつてそうだった若者達に視線を向けた。心の中に少し苦いものが湧き上がる。
 眩しい彼らの前で偉そうに大人面している自分が、暗く疚しいものに感じられた。

 そんな事を感じていたからだろうか。

 屋上と屋内を隔てる鉄扉が重そうな音を立てて開いた時に、保健医は驚きと僅かの後ろめたさに背筋を硬直してしまったのだった。

(続くの)



戻る