キスはなにあじ?

〜Saporne basinorum?〜



 相沢祐一は受験生。
 秋の夜長は、睡眠時間を除き須らく受験勉強に充てていた。ただでさえ志望校のレベルには少し不安を感じている今日この頃。夏休みに真琴で遊びすぎたのが祟ったらしい。この成績で獣医を目指すのは無理があったのかと、夏の模試の結果を受け取った辺りから祐一は徐々に増してゆく焦れに襲われるようになっていた。
 という訳で今宵も遅れを取り戻すべく、俺はメンデルの法則を友として遺伝の問題に取り組むのであった。
 前説終わり。

 秋の夜長というものは勉強に最適だと思う。何より静かなのが良い。唯一の外乱を除いて、なんだけど。
「ん?」
 40分ほど問題に集中していたところに、階下よりドアの開閉音が聞こえた。遠慮も何もなく勢い良く開き、そして閉じた音だ。そして、騒々しく響くその音は階段を渡る足の音。人それを『駆け上る足音』と呼ぶ。
 その足音が誰の物かなんて考える必要も無かった。この家には、そういう事をやってのける人間は1人しか居ないのだ。
 俺は溜息を吐いて立ち上がった。注意してやらなければならないからだ。
 気がすすまないながらも歩を進めドアノブに手を掛けたところで、突然廊下側から遠慮も何も無く勢い良くドアを跳ね開けられた。丁度ドアの角が額に当たった。痛かった。
「ねーっ、ねーっ! ゆーいちー!!」
 ドアをぶっ飛ばす勢いでやって来たのは、水瀬家の居候の真琴だ。遠慮なくマコティン・フォクスベルと呼んでやってくれ。
「こらマコティンッ! ノックくらいしろといつもいつもいつもいつもいつも言ってるだろ!!」
「真琴の名前を変に呼ばないでよぅっ! そんな細かいことはどーでもいいの!」
 マナーの問題は名前の間違いよりも些細なことにされたらしく。そんな真琴は手を後ろに組んで、心持ち胸を張って妙に自信に満ち溢れたご様子。彼女の宇宙では『レディの慎み』は『自身の呼ばれ方』に比べると取るに足らない物だというルールが成り立っているのだろう。
 そんな真琴の姿を見たら、急に毒気が抜かれた。力も抜けてへなへなだ。
「全くお前は……」
 ため息をついて、椅子に座る。
 一応真琴の保護者としては、真琴マナーアップキャンペーンに協力する為に一応の注意をしておこう。何を言っても聞かないような気もするけど。
「あのな……そーゆーことじゃ保育園の園児達にも馬鹿にされ……」
「ね、ね、祐一、キスしよっ! ねっ!」
 小気味良い音が鳴った、と思う。俺的にはそのままオーケストラの木琴を任されても良いと思えるくらいの良い音だった。
「……うわ、何も机にキスしなくても真琴にしてくれたらいいのに……」
 渾身の演奏も、真琴にしてみたら『机にキス』でしかないのには少し泣けてくる。
 というか、考えてみると原因は真琴じゃないか。
「お前がいなげな事言うからつんのめって机に額をぶつけただけじゃァ! しとぅてした訳じゃないわい」
「うーん、それじゃ、ほら、真琴としよっ! 真琴とだったらしたい、よね?」
「何を聞いてたんだお前は……」
 祐ちゃんがっかりだ。
「まーいいじゃない。ね、しよっ!」
 一方、真琴さまはそんな俺の様子など気にもお掛け下さらないご様子。俺の返事も聞かずに眼を閉じてむーって妙な唸り声を上げながら顔を近付けてきた。
「待て」
 いつもはそうでもないのに、今日に限ってここまでの拘りを見せるのが怪しかった。怪しすぎた。
「真琴、お前何を読んだ?」
「……何も読んでないわよぅ」
 質問された途端に眼を逸らすとっても素直な真琴の顔を、爽やかな笑顔を浮かべつつ両の拳で挟んで。
 搾るように力を入れた。
「目を逸らすな言いよどむな白状しとけ」
「イタイイタイイタイ! あぅーっ!」
「ほうれ、さっさと吐かんとお前のコメカミに穴が開くぞー」
「言う、言うから止めてよー」

 先ほどと比べると百分の一くらいに元気が無い足取りでやって来た真琴は、左手に持った一冊の本を差し出した。
「……ほら……。これ」
「持ってきたか。何々……?

『泥扶祁斯兇屍闘(でいぷきすきょうしとう)とは中国の戦国時代(紀元前3世紀頃)屈指の暗殺者であった祁斯(き・す)の興した暗殺術が基になっている。その暗殺術は、術者自ら口に毒を含み、出会い頭に相手の口に毒を流し込むという方法を基本とする。この暗殺術は創始者の名前を取って祁斯と呼ばれ、中国大陸全土を恐怖に陥れたという。
 この祁斯が世に知れ渡るや、流し込まれる毒を水際で防ぐ事を目的とする舌の格闘技である扶煉馳(ふれんち)が編み出されたが、祁斯による暗殺は完全には防げなかったという。泥扶祁斯兇屍闘はこの扶煉馳の技を養う為に行われた競技の一種である。競技者は粘液質の遅効性毒を口に含み、相手の口に流し込む。競技に敗れて毒を飲み込んでしまった者には地獄の苦しみが、毒が全身に回り死に至るまで続いたという。
 泥扶祁斯兇屍闘は祁斯を防ぐ為に一時期大いに奨励されたが、漢の文帝が毒殺を恐れ全面的に祁斯を禁止した為に急速に廃れていった。
 なお、秦の第2代皇帝胡亥の死因がこの暗殺術であるということはあまりにも有名である。

 ちなみに今日キス、フレンチ・キスと呼ばれている物は、これらの暗殺術・格闘技に似ている事に由来している。

民明書庫刊・「キス☆ロマンチックあげるよ〜♪」より抜粋』

…………マジかこれ!?」
 カクン、と顎が落ちた。思いっきり音読してしまった。
 キスだけに、きっと真琴の好きな少女漫画と思い込んでいたのだが。まさか、こんなのとは。
「ね、祐一もしたくなったでしょ? キス」
「なるものか」
「あ、あぅー……。いいじゃない、ね、ちょっとだけだから! 減るもんじゃないでしょぅ?」
「台詞がそこはかとなくオヤジくさいんだが……」
「良いじゃないのよぅ。その、祐一は、真琴の……、旦那様なんだから……」
 参った。
 そんな事を言われて、参ってしまう俺にさらに参る。
「……お前、恥ずいヤツ」
「あぅ……」
 心ばかりの照れ隠し。真琴だけじゃない、ふたりともが顔を真っ赤にしてるんだろう。きっと。
 そうなら、ちょっと嬉しいかな、なんて思う。
「ま、いいか。確かに減るもんじゃないし」
「ほんとっ!?」
「……そこでにぱっと笑われると弱い俺が可愛らしい……」
「それじゃそれじゃ、ねえ、眼を閉じててよ!」
「こうか……?」
「うんうん! ちょっと待ってね……」
「真琴、今なんだか『かぽんっ』って音がしたんだが?」
「気にしないでよぅ」
「……まだかー?」

ちゅっ

どろり

「……ッ!? ぶはっ!」
「わ、祐一汚いっ!」
 口の中にどろりとした感触。
 反射的に俺は真琴の顔を剥がして、咳き込んでしまった。口の中のゲル状物質のいくらかが、飛沫となって飛び散ってゆく。
「お、お前今何を流し込んだっ!?」
「えへへ……何だと思う?」
「って、ジャムだろう……。うぅ……俺は真琴に汚された……」
「えへへ。ねえ、祐一」
「何だよ?」
「真琴とのキスは、何味だった?」

(謎味だったら嫌だなあ)

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ハーボットマーカー
2005/04/04 泥扶祁斯兇屍闘の名前誤り2箇所を修正